<庄司淳一(宮城県美術館学芸員)「ササキットム:カオス以後、世界未満の時空/絵画の透明性について」 『アートみやぎ2003 』カタログ,宮城県美術館,2003年, p.p.7-8>
ササキツトム:カオス以後世界未満の時空/絵画の透明性について
今回のササキットムさんの出品は、共通して〈Inside and Outside 〉のタイトルをもつ油彩画9 点。いずれも2000 年以降の4 回にわたる個展で発表した作品で、額縁を取り付けることなく、枠づけしたキャンバスを直かに壁面に配置する。観者によってはこの展示空間から、壁面に開いた九つの窓を連想する向きもあるかもしれない。本カタログに寄せたコメント[34p] のとおり、事実作家は自作を窓ガラスにたとえて語っていて、観者の立つ現実の展示空間が「inside」、キャンバスの上に創出された作品世界が「outside」という関係を、ひとまず想定してよいのである。個々の作品の前に立ってみる。一例として、2001 年東京での個展に初めて発表した緑の作品。[f7, 37p] それは不定形の色面の重層から成る抽象絵画である。暗色の下途りの上に、次第に明度を高めた色が、下の色を透過しながら重なり、左上から底辺中央にかけて白いポールのようにさし渡された、長大な筆触がハイライトをなす。その筆触は、おおむね平滑に処理された画面にあって、筆圧の軽重や速度、絵具の盛り上がりや穂先の状態の変化など、作家の身体行為の痕跡としての物質性が、ほとんど唯一あらわになっている箇所である。現実世界の何か既知の形象を、画面のどこかに見い出すことはできない。それにもかかわらず観者は、この作品の画面に、さしあたって「風景」という言葉でいい表すほかないような、奥行きと広がりとを感得しないではおれないだろう。「奥への距離は測定不能である。たとえて言えば、全体を俯瞰しうる視点からの眺めではなく、緑に囲まれながら視界が開かれる方向はどちらかと四方を眺め回しているような視覚のあり方にも感じられる。」(梅津元評f美術手帖J 2002 年3 月)
この作品を前にすると、一人の幼児が混沌を分節して形に綸郭を与え、名前を付け、位置関係を定め、意味を付与しながら、初めてこの全き世界に触れようとするちょうど直前の状態へと、あたかも放りこまれたかのような感覚を覚える。それは未然形の「世界」である。空間こそ広がりを見せ始め、時問さえそのリズムを刻み始めていながら、形はいまだ生成の途上にある。そんなふうにも形容できそうな、ー種の過渡的状態である。この作品をあえて既成概念で分類しようとすれば`いわゆる「熱い抽象」の系列に連ねるしかないかもしれない。しかし、抽象絵画とは"具象世界”から離脱する試みなのではなかったか?この作品では、ベクト)レは逆方向に働いている。しかも画面の動勢は、空間の中の出来事というよりもあたかも時間の流れを形成して未来へと向かっているかのようである。画面サイズは、タテ194 にヨコ162cm。その方形の中に、完結した小字宙を構築してあるのとも趣が違う。ちょうど、室内から窓を通して外の景色を眺めるのと同様、未知なる風景の広がりの種々相を、フレーミングして切り取ったかのような印象なのである。おそらくこのあたりに、作家の資質と制作の独自性とが集約しているのではあるまいか。
ササキさんは、「Inside and Outside」という特徴的なタイトルを、すでに90 年代初期にはもう使い始めているが、透明な色彩の重層ということを制作の方法として確立するのは、90 年代半ばのことであったようだ。作家は、主に「ダンマル樹脂」という固形物をテレピン油などに溶かした液体と油絵具とを混ぜ、これに箪を浸してキャンバスに色面を作ってゆく。樹脂には、乾くと透明な被膜を形成する性質があり、油分が揮発したあとには、顔料の粒が被膜の内部に分散して、一種の色ガラス状の半透明な層ができあがる。おのおのの層は、それ自身発色すると同時に、下に隠れた層の発色をも透過して表面へと伝える。これを透層と呼ぶのだが、ササキさんの作品の奥深い絵画空間は、この透層の効果によって醸成したものだ。もっとも作家の場合、下の層が乾かないうちに別の層を重ねることもしばしば行っているようだが。技法上の研究を積む中で、作家はマックス•デルナーの「絵画技術体系j(佐藤一郎訳美術出版社1980 年) をよく参照していたという。それは、材料と技法に関する百科全書であると同時に、支持体に始まり、地塗層、絵具層、ワニス層と重ねられてゆく層構造のもとに西洋絵画の成り立ちを解き明かし、体系化した書物でもある。その最も重要な概念の一つが透層であり、作家の制作方法の発想基盤の一つが、ここにあるだろうことは想像に難くない。作家の試みとして重要なのは、画の表面の下に隠されてあるべき西洋古典絵画の層構造を、造形の手段として露出させたことである。
ササキさんの作品が、半透明な色彩の重層であるならば、これを窓ガラスと対比して語ることは、自然な成り行きだろう。ガラスは元来、光の透過と反射という、相反する二つの性質を併せもっている。ガラス窓とは通常、そのうちの透過性によって、外部の風景を内部に招じ入れる役割を担っているが、時にその物質性をあらわにし、1 枚の鏡面に変じて内部の情景を写し出すこともある。作家は、ガラスのこの二重性に、ことのほか惹かれているようだ。ところで、作家コメントによれば「絵画の空間」は、「無意識のうちに仮定した透明な平面を透視することに
よって現」れる(outside)。これはいうまでもなく、ガラスを透過して風景を眺めることに対応している。ー方、ガラスに反射した室内の鏡像は、絵画の何に対応しているのか。それは、観者の立つこの現実の展示空間の中に、1 枚の着色した布として在る絵画の物質性のことだ(inside)。ガラスの透過面と反射面とを同時に認識できる特異点を探すのと同様に、作家は現実空間と絵画空間とを「緊張のうちに両立」しうる、半透明な境界面とも称すべきもの( inside/outside) を、作品として創出しようとしているように見受けられる。具体的には、緑の作品[ 37p ] における白いポールのように、西洋古典絵画のセオリ一を逆転して、あえて物質性の露出した不透明なものを画面の上層に置き、下の透層から際だたせることで、作家は自ら課した独創的なテーマに応えようとしているのである。その境界面は作家にとって、現実と幻想とが行き来する透過膜のようなものでもあるのだろう。