Inside and Outside

ササキツトム

 絵具で覆われた物体がイリュージョンを生む。絵画には、このような物質性と空間性の両義的な構造がある。両者の関係は、鏡面化した窓ガラスの向こうを見る焦点のような非同一性としてあり、焦点は、その物質的な平面とイリュージョンとの間を常に往来する。そのようなまなざしを受ける絵画平面は、両義的で多様なあり方を示す。

 類することは、絵画を構成する種々相の関係の至る所で生起し、形式を超えた様々な事物の関係によってももたらされる。しかし、私たちが、そのような両義的な、あるいは多義的な事物を同時に所有しようとするとき、それらの統合や全体性への欲望とはついには満たされることはないように思える。そうした不完全さによる欠如は、だからこそ自己の同一と、描くことの欲望をも促しているといえる。したがって、主体がその両義性や多義性の間隙を漂う、いわば分裂的共存の拮抗こそが、絵画的な経験そのものなのではないかと思える。

 たとえば、描いている「私」とはどのような存在なのか。「今」を省みる自己とは、努めて客観的であろうとする、他者のまなざしを帯びた客体的な主体として、いつも遅れてやってくるしかない。描く「私」を問うこととは、まさに今、絵の具のついた筆を画布に触れさせようとしている「私」を、絵画の関係的な構造に参与する変数的な存在として、意識の俎上にのせることといえる。同時にそれは、瞬間と持続の狭間にある、自己と遅れた客体(主体)との非同一性においてなされることともいえるのである。

 矩形、あるいは枠によって、世界から掬い取られた薄膜の層、そこに与えられた絵画という形式は、瞬間と持続、物質と空間の、そこに内在される捉えようもない今、この瞬間の不可能な同一への欲望を、自らのうちに招来する。描くことの逡巡や葛藤は、まさにこの非同一性に収斂され、しかも、それ自体が描くことを牽引しているように考える。

 

 「今」を省みる自己の、その非同一性。近代性は、まさにそのような反省的自我において語られる。近代性の内に常に宿る「新しさ」は、技術革新のめざましい発展に乗じるように次々と消費され、既成の価値や概念に対する否定性の上に成り立ってきた。そうした近代性の新しさや現在性とは、そうあった瞬間にすぐに過ぎ去る否定されるべき過去としてもある。流動する時間の差異の中から常に立ち上がる近代性の恒常的な新しさとは、同時に恒常的な過去でもある。常に反省的なまなざしとともにあるその近代的自我とは、ゆえに常に欠如をともなった不完全な主体として新しさを求めて止まない。常に過去であり続ける、あり得ることのない今の、その不可能な同一への欲望のもとでは、私たちの存在のその深奥までもが、客観主義の一義的対称性によってあたかも計測可能であるかのような歪な同一性となって現れもする。そういった同一性への幻想、欲望は、今日においてなお私たちの内部と、私たちを取り巻く日常の細部の至る所に顔をのぞかせている。新しさは、今日においてますますその速度を増し、私たちの周囲を横溢している。

 描くこととは、まさにそうした新しさの脅迫に曝されながらなされている。

 

 作品制作における作家の逡巡や揺らぎは、なぜ描くのかという不断の問いの中にあるだろう。そこには、描くことそのものを分析の対象とする作者と、対象化された行為の一部としての作者が分裂しながら共存している。制作の場における作者は、絵具やキャンバスと直に触れながら、自らへの問いを反復し、作者自身を二分する。作者が問い、語りかけるのは、遅れてやってくる他者性を帯びた作者自身であり、また観者としての作者である。そのような場にあって、作品の意味とは作品のうちに一義的に閉じられるものではなく、いつまでも実現し得ない完成の開かれた場、作品の生成過程のうちにある。また、幾重にも重なる両義性を自らのうちに孕まざるを得ない作者自身の存在は、自己を同一化することの不可能性ゆえ、ときに匿名的でさえある。制作における作者は、両義的な自己を同一化出来ないというジレンマを抱えつつ、絵画平面の両義的な構造の上に、さらに二重に映し出される。そうして主客は溶解し、幾重にも重なる絵画平面の両義性の深淵に同化しさえする。只々、茫漠とした中庸の海に投げ出されるかのようである。けれども、それは決して描かないことを意味しない。描くということの無限の広がりでもあるのだ。

 常に不完全で欠如をともなった存在である私たちは、だから自己の同一を求めてやまない一人の人間として開かれた存在としてある。私たちの不完全さとは常に開かれてある存在の証明でもあるのだ。一方、私たちは、自身の周囲に横溢し、拡張し続ける完結的な一義性への欲望に常に曝され、自閉的にならざるを得ないこともまた事実である。

 表層的な今日の状況における困難さとは、まさにスペクタクルな幻想への欲望と、そこに内在される自己を同一化出来ないことのジレンマにおいて生起することなのだろう。自身がそのような狭間で、摩擦を伴いながらも動的な揺らぎを持って往来することの止揚と拮抗、そのような意味を「Inside and Outside」という作品タイトルに込めている。

 絵画における止揚、亀裂、異和の創出は様々な相をもって絵画の生成と変化を促す。それは、同一化されたものとしてあるのではなく、意味の一義的対称性を成すものでもない。絵画制作における非同一性とは、描くことの不可能性としてではなく、まさに可能性として開かれている。

 

「絵画制作における非同一性」(2011)より一部抜粋改変(2019)