<和田浩一(宮城県美術館学芸員)「ざっくりと混ぜられたような、視覚的な抵抗感」『展評』2003年, p.p.119-120>

ざっくりと混ぜられたような、視覚的な抵抗感  和田浩一

 ササキットムの、前回の吉祥寺での個展(ギャラリーαM、2001年12月~2001 年1 月)は印象的だった。それは同展パンフレットに林卓行氏も書いているように(1)、なによりそのゼリー状の光沢のある画面の絵肌によってであったと私も思う。

 この絵肌によって何が生まれているかと言うと、一つには、単純なようだが色彩に集中することが容易になるということである。表面の物質感がおさえられることで、視線がそこでプロックされずに、私たちは表面より幾分奥へと誘導され、色彩自体が立ち現れるようになる。二つ目は、物質感も適度に喚起されるということである。極端な例で言うと、一時期流行した画面を合成樹脂で覆った絵画などのように、均一な光沢が物質感を完全に飲み込んでいるわけではない。私たちは、色彩と戯れながら、時として物質の世界へも引き戻されることになる。

 そのような絵画世界と現実世界との往復運動が、絵画を複雑で豊かなものにする。作者の興味はこの点に集中していて、彼なりにそれを「Inside and Outside 」という文章の中で語っており、近年の作品はすべてこの言葉がタイトルとなっている。

 ところで、もう一つ指摘したいのは、絵具の混ざり合いから生じる視角的な抵抗感のことである。作者は刷毛によって何層かの絵具を重ねてゆく。生渇きの上に重ねることで、二つの絵具は混じりあうことになるが、それは白濁を生じる一歩手前で止まつていて(2)、言わば簡単にざっくりと混ぜた状態となり、それが心地よい視覚的な抵抗感を生み出していた。これが表面の物質感に替わるものとして作用しているのかもしれない。この抵抗感が点在する画面の中では、表面に置かれた生のストロークも、ほとんど気にならなくなってくるのは不思議である。

 この時の感覚を思い出しながら今回の個展を見に行き、その変化に少し違和感を覚えた。今回は、昨年制作された作品数点を含む、大小あわせて10点の作品が展小されたが、そのうち最新作にあたる作品には、絵肌にあまり光沢が与えられていない。また、このうちのメインとなる大きな2 点は150 号を横に使った作品であり、その作り出す空間がこれまでとは異なって、強い動きや、遠近法的な奥行きをも感じさせるものだった。作者が横型の作品を制作したのは今回が初めてだという。これらの新しい要素がもたらすものは大きく、前回とは違った印象を受けることになった。

 作者によれば、この変化は意識的に行ったものだという。ぬめり感のある絵肌は、コバヤシ画廊の個展の時から既に始まつていた。aMでの個展は、それをさらに展開・整理したものだったことになる。そのため、今回は多少方向を変えたいという欲求は当然あっただろう。またその絵肌は「特異」と形容されるくらい(3)、確かに特徴的なものでもあるため、その点だけが強調されて、あまりに作為的だととられることを避けたい、という意図もあったという。だが、もし横型の作品を今回試すのであれば、以前の絵肌でまず見たかったというのが正直な感想である。画面のフォーマットの違いは、それ自体で既に大きな視野の違いをもたらすと思うからである。

 ところで、以上のような感想を持った後に、だが確かに次のようなこともあるだろうと思い至ったことを付け加えておく。先に述べた視覚的な抵抗感、つまり樹脂分を多量に含んだ光沢ある絵具を、生渇きの状態でさらに刷毛で繰り返し塗ってるいく作業で生じる、その指先に伝わる抵抗感や、それにともなう絵具がザックリ混ざるような感覚を、鑑賞する全員が同様に追体験できるとは限らないということだ。その感覚を伝える点で、画面の光沢は^歩距離を置くような作用をすると感じられるかもしれない。

 かくして、inside / outside の往復運動を追求しようとする作者にとって、これからも画面の質感は、ある振幅の間を様々に試してゆかざるを得ないだろう。その歩みが、着実なものであることを期待したいと思う。

(1)林卓行「Sweet& Bitter 」、ササキットム展パンフレット、ギャラリーaM、2001

(2)前掲文中では「混濁」とう言葉を使っているが、それはαM出品作よりもっと甚だしく混色が行われていた以前の個展の出品作品が対象となっていると思われる。

(3)前掲載文